◆2003/05/21◆
真幸タンの「電子メディア論」に付録として付いていた「オタク論」を読んでいたらラカンの『大文字の他者』とかでてきたのでわからなくなる。
そこで、手元にあったのに読んでいなかった「ラカンの精神分析」(新宮一成/講談社現代新書)を少し読む。こんどはフロイトの言ってきた事がわかっていないと読み進めることができないことに気付く。
この時期に未出席という履修してある授業に出席。
ラカンーフロイトについて扱っていることを知った。
いやぁ学校って便利ですね。かいつまんで解説してくれるんだもの。

それにしても積ん読がすぎる。部屋にある本の何割か、読んでいないものがしっかりと。

小説以外は、初めから順を追って読むより、ばっと開いたページに目を通して、わからなかった言葉を他のページで探す方が読みやすいかもしれない。
わりと辞書を読む時のようなやり方ですね。

昔から思っているけど本当に私、本読むの遅いな。

で、どうでもいいメモ。

フロイトは表現に慎重だったんだね。すこし驚いた。
慎重に現象を描写しようとすればするほど、夢見がちな表現になるのは何か面白い。
夢見がちな表現は比喩のようなものだったりする。
カッチリと伝えようとするのではなく、的確な点だけをおさえ、あとはスイング。
それがいいのかもしれない。というかどこか漠然としていないと描写できないのだろうな。

あと群像の新人賞に寄せるコメントで、藤沢周が「小説を書くのに知性はいらない。その言語感覚と世界のぎりぎりのところを書いているのがいい」のようなこと(記憶曖昧)を書いていた。
へー、なるほど。と思いながら、舞城王太郎を読んでああ、と思う。
妙にはりきりくんな所がなくて、普通に楽しいから、やっぱりこういうことなのかい?と思う。
しかし藤沢周の書いたものをこの文章以外に読んだことがない。
そのうち読もうと思う。

はりきりくん自体は久しぶりに見た。すごい生物だなぁ。

なぜわざわざアップするのかというと、多分書いて手元に置いておくと忘れるだけだと思うから。
人の目に触れる可能性のあるところの方が、一線を超えて、忘れにくい。

そういう堆肥置き場ホーダイ。

あとなんか恥ずかしい告白を。
何年か前、食事の時に箸以外を使いたくなくなった時があった。
洋食でも箸。シチューの具を運ぶのも箸。
いや単に私がナイフとフォークを使うのが苦手だったせいもあったのだが。
なぜだかナイフとフォークが嫌いで嫌いでしょうがなかった。
理由を考えて、おそらくあの「分断/切断/ぶっさし」という動きが嫌いなのだな、と思った。
箸は連続しているものを、その流れに(わりと)沿って引き離すのがいいんだな、と思った。

後々バルトの「象徴の帝国」を斜め読みしたときにそんなくだりがあった。
私の考えは力一杯既出なんだなあと思って妙な気持ちになり、
また同時にバルトに興味が湧いた。


あんまりわかっていない私が言うのもなんですが、
上で書いて、スイングは重力から生まれる音楽なのではないかな、と浮かんだ。
スイング感は何とも表現しづらいものだけれど、無重力とは違う。
似ているような気がするが、確実に違う。
重力があるから無重力を想像できるけれど、無重力だったら重力がある状態を想像できないでしょう。
そんなかんじ。
(2003/05/20)

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