◆2003/08/11◆
やはり書く事というのは私の中で重要な位置を占めている。

人に向けての興味というのは、読書の楽しみと似ている。
対象の本が、作者が、どのように考え感じ表現して物語をつむいでいくのか。それを読み解くことが楽しい。
読み解くことと分析することは似ているようで、少し違う。
けれど手がかりが必要なという点では同じだろう。

私は「人は一冊の本である」と言いたいのかもしれない。
そのあたりの雰囲気は「ジョジョの奇妙な冒険」(荒木飛呂彦/集英社ジャンプコミックス)の岸辺露伴のスタンドを思い浮かべてもらうのが一番適切だ。
これまでの生活すべてがひとつの物語を構成しており、それ自体が作品になっている。
私にとっての恋愛の対象とは、最優先で読み解かれる書物にあたる。
他のあらゆる情報はその書物を読み解くためのカギとなっていく。
逆に言えば、どんなときもその書物を読み解いている状態になる。
それが私の恋愛だ、と観察した結果思った。

リリー・フランキーが「セックスは情報収集だ」とフランス書院のサイトで言っていたが、それと似ている。
情報だ。人は膨大な情報の集合体だ。
相手の自我という編集者が提示している書物の奥にある情報を読んでしまいたい。
それを強く感じた時が、おそらく私の恋が成立する瞬間だろう。

そしてその書物を読み進めることを拒まれた時、私は文章を書く。メールを出す。
書く、という事が大事なのである。それによって想いや考えが編集され、いびつであろうと一つの形になる。
また、自分の内から溢れだす言葉で、それまで読み進めていたかの書物のページに印をつけ、あるいは封印する。
もうその書物に手を触れてはならないからだ。
書架に戻された書物は誰かの手によって持ち去られ、わたしは返却待ちの状態になる。 それが私の恋愛である。


それでは文章をかくというのはどういうことだろうか。
言うまでもなくそこには筆者の心や身上が表れてくる。
「賞は作品に与えられるのではなく作家にあたえられるのだ」という言葉を私は素直に受け取る。
上に引用した文の執筆者はこうも言っている。
「小説なんて誰でも書ける」と。
そしては私はそんな彼女の書いたものを読みたいと思う。
他の友人にも、そのように「書かれた小説を読みたい」という欲望を持っている。
それはやはりその友人たちのことを知りたいからであり、面白いであろうと推測できるからだ。
つまりただの文章だけでなく、作者性(こういってしまおう)を求めていることになる。 文章を書く事とは思想や存在の痕跡(この言葉はあてはまるだろうか?)を、一時的にまとめあげることになる。
そこに必要なのは編集力だ。

とりあえず
(2003/08/10)


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